パプアニューギニア・クルーズ旅行記: トロブリアンド諸島、クラ交易の島、壮大なサンゴ礁、そしてヒクイドリ


ニューギニア島。グリーンランドに次ぐ大きな島である。熱帯雨林に覆われ、未開な人々が住むところというのが一般的なイメージだ。このニューギニア島に惹かれてしまった。

リンドブラッドの船で南極クルーズに出かけたとき、宣伝のパンフレットをもらった。そこにニューギニア・クルーズが載っていた。貝殻のネックレスをつけ、花を挿した少女が微笑んでいる。

「ニューギニアも面白そうね。行ってみたいわ」

妻がいった。私も同感だった。このクルーズは、当時、リンドブラッドとパートナーの関係であったコーラル・プリンセス・クルージズが運航していた。

クルーズの時期は秋だから、授業の邪魔となり、すぐに出かけることはできない。そこで、夏休みに訪問することを考えた。クルーズは止めて、飛行機で主としてニューギニア高地を訪問するのである。

ユニークな原住民、そして極楽鳥に出会うことができるだろう。しかし、現地の治安は良くないし、原住民の雰囲気も何となく不気味で、旅の実施に踏み切れなかった。

またクルーズに戻って、コーラル・プリンセス・クルージズのホームページを定期的にチェックしていた。すると2015年3月22日発のニューギニア島一周クルーズが飛び込んできた。

IMGpng.jpg

オーストラリアのケアンズを出発してダーウィンに戻ってくる。 魅力的な目的地も多い。なお、これは予定であり、実際の航路は少し違ってくる。

クルーズのころになると妻も退職時期が迫り、自由がきくだろう。これだと、勢いで予約してしまった。

しかし、良い旅になるという確信は持てなかった。海岸部を中心に回るから、ニューギニアらしさを味わえないのではないか。極楽鳥を見に行くとは書いてあるが、具体的でなく、結局見られないのではないか。

蚊が多くて伝染病の危険性が高いのではないか。時期的には雨期のはずで、雨が続くのではないか。だんだん不安になって来て、キャンセルしようかと思った時もある。しかし、かなり踏み込んで調べてみると、見当はずれの不安もあるようだった。

結局、予定通りクルーズに出かけることになった。クルーズのスケジュールを見ると、ダイビングやシュノーケリングをする日も多い。私はダイバーで50代にはかなり潜った。

それから長いブランクがあるが、ダイバーの聖地のようなところにも行くので、少し練習して潜ろうかと、コーラル・プリンセスに問い合わせた。先方はブランクのある70代の老人で、おまけに英語が分かりにくいかもしれない客に恐れをなしたらしい。

「ご年配のブランクのある方はオーストラリア人の医師の許可を得て頂くのが原則です」

という、もっともな返事が返ってきた。無理をすることもなかろうとシュノーケリングで通すことにした。そして、少しは新しい経験をと、海中写真を撮ることにして防水カメラを2台買い込んだ。

こうして期待と不安をかかえて、ニューギニア島一周クルーズに参加した。このクルーズの様子を「パプアニューギニア・クルーズ」と「ラジャアンパットとバンダ諸島クルーズ」の2つに分けて記したい。

なお、このクルーズについては4Travelでも紹介している  (http://4travel.jp/traveler/tmuramatsu/)。4Travelでは実際の旅行情報に力点を置き、写真の数を増やしている。

ヒクイドリ

2015年3月17日。成田とシドニー経由でケアンズに飛んだ。18日午前にケアンズ着。船に乗るまで4日ゆとりがある。まず、パプアニューギニアのお金を入手したり、噴霧式の虫除け薬を購入したりと準備を整えた。

19日は、何かの観光に行くつもりであったが、それどころではなかった。強力なサイクロンであるNathanが襲来したのである。一時はケアンズの近くに上陸する可能性まであったのだが、北へそれてくれたのは幸いであった。それでもかなり風が吹いた日であった。

3月20日。サイクロンは過ぎ去り、天気は回復した。予定通り、ヒクイドリを見に行くことができる。ヒクイドリはダチョウの仲間で、体長は2メートル近い。巨大な足による蹴りは強烈で、最も危険な鳥とされている。首の周りの青色や赤色が鮮やかで、美しい鳥でもある。

熱帯雨林に住み、果物などを食べるので、種子の伝播にも重要だそうだ。ヒクイドリの数は多くなく、2500羽かそれより少し上の数が残っているだけだ。

ヒクイドリ観察に適した場所が2か所ある。ミッションビーチとキュランダ郊外のカソワリ・ハウス(Cassowary House)で、いずれもケアンズから訪ねることができる。

距離的に近いのはカソワリ・ハウスだ。 ここはバードウォッチャーに人気が高い宿である。2ケ月前にメールで連絡して、20日の宿泊を予約できていた。ヒクイドリについて尋ねると

「朝出ることが多いですが、夕方、あるいは日中のこともあります。毎日、必ずというのではありませんよ」

という返事だった。運任せの所もあるが、挑戦しようと決めていた。しっかり昼食を摂って午後1時過ぎ、タクシーで出発。40分ほどでカソワリ・ハウスに着いた。

駐車スペースに女主人のスーとスタッフかもしれない若い男が待っていた。あらかじめ到着時間を電話で知らせていたり、近づいたら運転手が電話したためと思ったが、それだけではなかった。

「ヒクイドリが来ているわ、急いで !」

スーがいった。大慌てでカメラを引っ張り出して、案内してくれる男の後を小走りについていった。少し進むと、いた。思ったより、さらに大きいヒクイドリの後ろ姿だ。

ヒクイドリは立ち止まって、振り返り、まっすぐに私を見た。青い首、垂れ下がった赤い飾り、鋭くとがった頭上の突起、ヒクイドリのすべての特徴が見えた。

ヒクイドリは傲然と私を凝視している。なんの恐れもない。自分が優位にあることを確信している目だ。最も気高い鳥の一つである。

写真を撮ろうとしたがうまくいかない。もうブッシュの中にいるので、木の枝や葉っぱがオートフォーカスの邪魔をするのだ。

そのうちにヒクイドリは前を向いて、歩き始めた。あっという間にヒクイドリは見えなくなった。首回りの鮮やかな色が、逆に保護色になっているのだそうだ。

「最近は遅いのよね。今日はオスが11時半に出て、メスは今から30分前に来たわ」

とスーがいった。写真は撮れなかったが、早くもヒクイドリを見ることができて、私は大満足だった。

部屋に荷物を運びこんでいると、ミナミオオクイナ(red-necked crake)がいると、本館のベランダに案内された。首から上が赤いきれいな鳥だ。じきにいなくなり、写真は、また撮れなかった。

私たちの部屋は別棟にあり、シャワー、トイレ、さらにベランダもついている。冷蔵庫、電子レンジなども置いてあり、簡単な食事の準備もできる。今日は夕食が出ないというので、パンなどを持ってきたが、これならもう少し本格的な夕食を摂れただろう。

エアコンはなく、天井の扇風機だけであるが、高原なので暑く感じることはなかった。

ヒクイドリはもう出てこないとしても、他にも興味ある鳥はいる。極楽鳥の仲間であるコウロコフウチョウ(Victoria’s rifle bird)がディスプレイする場所も教えてもらった。そこを中心にロッジの回りで鳥を探した。何度も、じっと待っていたがコウロコフウチョウは現れなかった。

それでも収穫はあった。多いのはミツスイで、ことにオーストラリア東北部の固有種であるシラフミツスイ(Macleay’s honeyeater)が良く見られた。

DSC_2715s.jpg

オーストラリアツカツクリとヤブツカツクリもいた。

朝6時半から、ロッジの近くで鳥を探した。ヒクイドリにはお目にかかれない。

8時に本館のベランダで朝食。ベランダには鳥用のエサが置いてあり、地上にも少しエサがある。食事をしながら、やってくる鳥を待つのだ。早速、ミツスイが飛んできた。

朝食用のテーブルには椅子が4つ配置されていた。もう一組の客は、隣室にいるイギリス人夫婦だ。引退したばかりで大旅行を計画したそうだ。

朝食は充実していて、美味しかった。ことにマンゴー、マンゴスチン、バナナなどのトロピカルフルーツは完熟した素晴らしいものだった。

じきにスーがいった。

「ヒクイドリが来ている」

慌てて下を見ると、いた。ヒクイドリは私たちの気配を察してキッと上を見た。

DSC_3061s.jpg

スーの勧めに従って、私たちは下へ降りた。ヒクイドリはエサをついばんだり、あたりを見回したりして、寛いでいた。これはオス。昨日のメスより一回り小さい。

ヒクイドリとの距離は数メートル。望遠レンズだと鳥の全身を入れるのに苦労するくらいの近さだ。私たちは、ゆっくりと鳥を眺めた。

やがてヒクイドリは水飲み場に移動し、うまそうに水を飲んだ。そして、さっと熱帯雨林に消えた。ヒクイドリはオスが子育てをする。このオスも、ずっと子連れで現れたそうだが、今日は単独だった。子離れの時期になっているのだろう。

食事を再開すると、じきにスーがささやいた。

「またヒクイドリよ。今度はメスだわ」

たしかに、昨日見た、大きなメスがやってきている。私たちは下へ駆け下りて、またヒクイドリと対面した。

DSC_1128s.jpg

ヒクイドリはゆったりと時を過ごした後で、歩み去って行った。

これ以上はないという経験だった。

この宿のチェックアウト時間は10時と聞いていた。もっとも「ヒクイドリが現れないかもしれないし、21日にその部屋に泊まる人はいないから、ゆっくりしていい」と、スーは親切にいってくれていた。

しかし、こんなにヒクイドリを見たら、そろそろ引き上げ時だろうと、タクシーを依頼した。タクシーは順調に走って、ケアンズに着いた。熱帯雨林から町に帰ってきたのである。

 
サンゴ礁と海の民

3月22日、午後3時。オセアニック・ディスカバラー号はケアンズを出港した。ニューギニア一周クルーズの全体の計画は、初めに示した図のようになる。

探検クルーズだから、出発直前に送られてくる最終プランは若干変わっているし、さらに現場の状況による微調整がある。

私たちの場合、バンダ諸島からダーウィンに直行し、その代りラジャアンパット滞在が長くなるのが、最も大きな変更点だ。

今日は空が晴れ渡り、風もなく航海には絶好だ。この船はコーラル・プリンセスが誇る、新しい船だ。

DSC_6795s.jpg

1779トン、全長63メートル、乗客定員72名とクルーズ船にしては小型であるが、そのため細い水路を縫っていくことができる。

外海に出ると少し揺れ始めた。

                                                                          
3月23日。珊瑚海を横断してゆく途中に、オスプレイ・リーフに立ち寄った。大海原の只中に突如現れるサンゴ礁である。3回もシュノーケリングをするチャンスに恵まれた。サンゴ礁の様子はグレートバリアリーフに似ている。
DSC_0130s.jpg

2度目のシュノーケリングがハイライトであった。このときは流れが強く、流されないように潮流に逆らって泳いでいた。

突然、眼下にギンガメアジの大群が現れた。そして、湧き上がるように、すぐそばにやってきた。目の前をギンガメアジの群れが通り過ぎてゆく。カメラを取り上げ夢中でシャッターを切った。

DSC_0208s.jpg

私は、ダイバー時代にかなりの種類の大きな魚を見ているが、不思議なことにギンガメアジの大群に出会ったことがなかったのである。いや、正確には、ヘロン島でグラスボトムボートから見ただけだった。

3度目のシュノーケリングでは大きなシャコガイが目についた。

DSC_0253s.jpg

3月25日。アロタウに上陸した。パプアニューギニアへの第一歩である。早速、バスに乗っての観光。日本軍が上陸した地点では、船の残骸が残されていた。はるか南の地に駆り出されて散った兵士たちに思いをはせた。

それ以外には、特に感動を覚えることはなかった。暑いのに、バスに空調はないし、案内の仕方は間延びしている。それからも、町の観光は似たようなものであった。パプアニューギニアの魅力は別の所にあるのだ。

3月26日。いよいよ本番だ。これから小さな島を周るのである。ニューギニアの原住民は海の民、川の民、山の民の3つに分かれている。このクルーズでは初めの2つの民を訪れるのだ。

ニューギニアというと高地にばかり目が行っていたのだが、詳しく調べると海の民も同様、あるいはそれ以上に重要だということが分かって、大いに期待していた。そしてむろん、パプアニューギニアのサンゴ礁は世界的に有名である。

まず、Twin Towersでのシュノーケリング。驚くべきサンゴ礁だった。枝サンゴが巨大という言葉が似合うレベルまで枝を伸ばしていた。生き生きとして蛍光を帯びたポリプがいたるところに顔をだしている。そしてサンゴの種類は多様だ。

DSC_0319s.jpg

青紫と赤紫のサンゴが特に目を惹いた。サンゴは全く健康だった。果てしなく広がる巨大なサンゴの森を、私たちは目を見開いて眺めて行った。

DSC_0348s.jpg
DSC_0347s.jpg

1時間以上も泳ぎ回って、船に上がった。

船といっても、クルーズ船ではなく、Xplorer と称して、全員を収容できる屋根つきのモーターボートである。観光はこの船とゾディアックを併用するのだが、Xplorerのほうが、設備が整っているので、ゆったりと観光できる。コーラル・プリンセスのセールスポイントの一つである。

上がってきた客たちは皆、興奮していた。「prehistoric!」原始的とでも訳せようか、これがこのサンゴ礁に対する評価であった。

客の半分程度はオーストラリア人、残りはアメリカ、イギリス、オランダ、ギリシャ、ニュージーランドの人達だ。多くは旅のベテランで、結構、目は厳しい。この評価は勲章物であろう。

私自身、これまでサンゴ礁のベストは、グレートバリアリーフのリザード島で見たものであったが、あっさりと、ここがベストであると意見を変えた。サンゴの大きさ、サンゴ礁の広さ、サンゴの多様性、いずれの点でも勝っている。

おまけにリザード島のサンゴ礁は1991年に見たものだ。それから、多くのサンゴ礁が損傷を受けた。今日、このようなサンゴ礁を見ることができるとは、正直なところ、予測していなかった。

朝の一泳ぎを終わると、すぐにドーブー(Dobu)島に上陸した。ここはクラ(Kula)の輪の中で重要な位置を占めている。旅行前の調査で、クラについては予備知識を持っていた。

この地域の島で、クラ交易ということが行われている。一種の物々交換であるが、その基本はクラの宝物が交換されることだ。宝物は2種類があり、1つは時計方向に、もう1つは反時計方向に交換されていく。

交換によって、より良い宝を得て、これを次に渡していく。こうして高い評価を得るのだ。名声や高い評価を求める気持ちは人間の根源の部分に存在し、そのため男たちは危険を冒すのだろう。

クラ交易の船は天候の安定した時に出発する。大海原を、はるか遠くの島めがけて旅するのだから。好まれる時期の一つは今頃だ。このことを知って、私は、今は雨期ではないかという恐れを払しょくしていた。

実際、パプアニューギニアではほとんど好天に恵まれたのである。

クラ交易については、ロマンティックなので、かって、テレビのドキュメンタリーに登場したことがあるし、その時のディレクターが本も出版している(Kula 市岡康子、コモンズ)。

ドーブー島では島民たちが歓迎してくれた。ツアー・リーダーのジャーミーは取り囲んだ島民の前で感謝の意を表し、島の学校へ寄付する品々を紹介した。

謝意と学校への寄付は、これから船が村落を訪ねるたびに繰り返された。これは双方にとって極めて重要なことだ。

歓迎の輪の中から、島の長が現れた。小柄だけれど目が効いている。しばらくして、私も会話に参加し、テレビ取材の話をした。長はにわかに興味を示した。そして、これからクラの宝物を持ってくることにしているから、ちゃんと見るようにといった。

DSC_3335s.jpg

2つのクラの宝物が運び出され、芝生の上に置かれた。左は首飾り。ウミギク貝から作った赤いビーズを繋いだところがポイント。時計方向に交換される。

右は腕輪。大きな貝を切って作った腕を通すところがある。これは反時計方向に交換される。クラの宝物を身近に見られて、私は幸せであった。

 

しばらくして、私たちは島を去った。見送りも盛大であった。長は手を振る私たちに、はっきりした日本語で「サヨナラ」といった。

午後、Dei Dei温泉を訪問。日本人にとっては、温泉は見慣れているし、おまけに暑いので、大した感動はなかった。

 

3月27日。朝、トロブリアンド諸島のKuyawa島に上陸した。歓迎のため、小中学生、ほぼ全員が浜に集まった。

頭に赤い鉢巻、顔に少しのペインティング、足首に白い布、胸には貝殻のネックレスとレイ。少女たちは赤いスカート。伝統的ないでたちである。すべてが調和して美しい。なにより笑顔がまぶしい。少女たちは私たちにレイをかけてくれた。

DSC_7049b.jpg

そして、広場で踊りの披露。喜んで参加する子供たちの姿が微笑ましい。

DSC_7103s.jpg

さらに部落を散策して、お土産を買って、私たちはこの地を去った。トロブリアンド諸島は、文化人類学を識る人にとっては忘れられない場所である。

偉大な文化人類学者であるマリノフスキーが長期滞在して、母系社会であるトロブリアンド諸島の姿を世界に紹介したからだ。

トロブリアンド諸島は独特の性風習を持っている。そのため愛の島という別称もあり、好奇の目で見られることもしばしばだ。

私たちが出会ったのは、健康そのものの子供たちだった。現代人の子供たちと、どちらが幸せだろうかと思わせるものだった。ただし、これは過ぎ去りゆく桃源郷のかりそめの姿である可能性が高い。

ツアー・リーダーのジャーミーは、もともと本島を訪れていたのだが、大型船が入港するようになり良さが失われたので、場所を変えたといっていた。

3月28日。トゥフィに上陸。火山地形が浸食されてフィヨルドのような入り江になっている。現地人のカヌーに乗って、入り江を遡り、部落を訪れた。

サゴヤシからのでんぷんの作り方など、伝統技術が披露され、さらに歓迎のダンスが行われた。頭の飾りに極楽鳥の羽を使ったりと、衣装はここが一番見事であった。

DSC_0535s.jpg

帰りのカヌーの漕ぎ手は女性だ。貝殻のネックレスが美しい。

DSC_0547t.jpg

その後、トゥフィのリゾートを見学した。庭のハイビスカスにオオルリアゲハ(ユリシス)が来ていたのは嬉しかった。

                                                                            

3月29日。朝はシュノーケリング。前回ほどではないがサンゴがきれいで、またソフトコーラルも目についた。残念なことにここで第一のカメラが水没。

午後はKamialiの訪問。カヌーに乗って水路を探索したが、時間が短く、観光的というべきものだった。

                                                                             

3月30日。午前中にシュノーケリング。午後、Siassi諸島の1つであるTaum島を訪問した。ここでは3つのグループが踊りを披露した。ことに、最後のグループは貝殻の装身具が美しく、踊りもダイナミックで、パプアニューギニアで経験した中で最高の踊りであった。

DSC_1136s.jpg

DSC_7241s.jpg

写真の一部を拡大した。貝の装身具が見事だ。

DSC_7241s.jpg

こうして、海の民の地を満喫して、さらに北上した。世界を旅した私たちだが、文化的面では、パプアニューギニアはベスト10に入る旅行先だった。

他のクルーズ客も同意見で、「高地に行かなければ、本当のニューギニア文化は見られないかと思ったけれど、大間違いだった。これで十分」といっていた。

 
セピック川

3月31日。マダンを観光。そして船はセピック川に向かった。セピック川はニューギニア島の北東部を流れる大河である。流域の住民たちは独自の文化を発展させ、川の民とよばれている。

                                                                            

4月1日。朝、船はセピック川に入り河口近くの、Kopar村に停泊した。上陸すると住民たちがドラゴンダンスで歓迎してくれた。

赤い立派なお面が印象的で、獅子舞に似ていると思った。さらに寸劇が演じられ、見ている村人たちも大喜びだ。

DSC_7447s.jpg

そして、並べられたお土産物を見て回った。セピック川流域の彫刻は有名だが、優れているのは中流域で、このあたりではないはずだと財布を持たずに上陸したが、これは失敗であった。 立派な仮面の彫刻がいくつもあったのである。

DSC_7558s.jpg

河では子供たちが遊んでいた。

                                                                         

Kopar村を出航すると、船はセピック川を遡っていった。川はゆったりと蛇行し、両岸には林、森そして草原とひたすらに緑が広がっていた。鳥を探すと、シロハラウミワシ(white-bellied sea eagle)がいた。

時々、カヌーに乗った人たちとすれ違った。愛想が良く、こちらが手を振ると、オールを持ち上げてポーズしてくれたりした。

DSC_7724s.jpg

目的地はBien村。Angoramまで行く計画だったが、治安上の配慮から、その手前で遡行を止めたのだ。ここでXplorer に乗り換えて、支流を探索した。何人かの漁師がカヌーで出漁していた。投げやりで魚を取る素早さには驚いた。

DSC_7632s.jpg

夕方なので多くの鳥がいた。チャバラワライカワセミ(rufous-bellied kookaburra)は、しばしば木のてっぺんに止まっていた。これは全長28cmという大型のカワセミで、主としてニューギニアに分布する。

もう一つ良く見たのはDollar birdでたしかに、羽にドルのような模様があった。和名を調べて驚いた。ブッポウソウであった。まさかと、1年ほど前に撮ったブッポウソウの写真を見たら、同じような模様があった。ブッポウソウと気が付かなかったのは恥ずかしい。

そのほかにルリメタイハクオウム(blue eyed cockatoo), red-cheeked parrot, Brahminy kite などもいた。

                                                                         

4月2日。朝、再びXplorerで支流をクルーズ。出てきた鳥の種類は同じだった。

朝食後、Bienに上陸した。村人たちは巨大な魚の張りぼてを振り回して歓迎してくれた。

そしてダンスや寸劇が繰り広げられた。お土産物も売られていたが、昨日の方がレベルの高い品物が多かった。

残念だったことは精霊の家(ハウスタンバラン)を見られなかったことだ。Bien村は洪水で、高台の部分に上陸したためかもしれない。探検クルーズでは、全てが予定通りにはならない。

午後セピック川を下ってManam島の近くに停泊した。この島は火山島で、かすかに煙が上がっている。この景色を背景にサンセットバーベキューとなった。ロマンティックな設定だ。

                                                                          
4月3日。ウェワクに上陸。パプアニューギニア最後の寄港地である。ここには日本軍の基地があった。岬の突端に日本軍兵士の慰霊碑が立っていた。

青い海を北上すれば日本に達する。祖国からの旅人として、私たちは兵士たちの霊に深く頭を下げた。

午後、船はウェワクを出航した。パプアニューギニアの旅は大成功だった。ニューギニアのインドネシア側では何が待っているのだろうか。