ツンドラに集うチャーチルのホッキョクグマ


降り立ったチャーチルの町は寒かった。でもこれでよい。これからホッキョクグマに会うのだから。ホッキョクグマ、愛称シロクマは陸上にいる肉食獣としては最大である。白い毛皮や、やや細長い顔が美しい。

野生のホッキョクグマはずっと長い間、見たい動物であった。1994年、カトマイ国立公園でホッキョクグマについての本を買っていた。そしてカナダのハドソン湾に面する町、チャーチルの近くにホッキョクグマが集まってくると知った。10月上旬から11月上旬にかけてであった。

ここでハドソン湾が真っ先に凍るので、氷の上にアザラシ狩りに行くホッキョクグマが、急いで出発するならここだとやってくるのである。しかし、10月、11月は仕事が白熱化し遊びに出かけるなど、とんでもない時期であった。

待っているうちに状況が変わってきた。地球温暖化のために、チャーチルの気温がなかなか下がらなくなったのである。
                                                                      

70歳を超えて、やっと義務が少なくなった。南極クルーズ、ゴリラトレッキングと旅行の予定は目白押しであるが、年齢に背中を押されて、ネットで最近の様子を調べた。得られた情報は錯綜していた。

しかし、チャーチルのホッキョクグマシーズンは10月末から11月中旬までになったというのが、ほぼ確かな結論のようだった。

ホッキョクグマを見に行くツアーを開催しているフロンティアズ・ノース・アドベンチャーズ(Frotiers North Adventures)のホームページに入ると、2012年10月31日から11月2日の3日間、ツンドラの上でホッキョクグマを見るツアーがあることが分かった。

スケジュール的に可能な時である。本当はシーズンの真っ只中である11月10日前後のツアーがベストであろうが、今、都合がつくのはこれだと予約した。妻は講義があるので、珍しく一人旅となった。

 
楽しみにしていると、チャーチルの天候が芳しくない。10月9日に雪が降った後、気温が上がり、10月下旬になっても下がらないのである。温暖化がさらに進んでいるのだろうか。気温が高いとクマがたくさん集まってこないし、やってきたクマもじっとしている。

出発が近づいた10月24日に、やっと雪が降った。気温も下がりつつある。この天気が続くだろうか。

10月26日。期待と不安を抱いてエアカナダに乗り、バンクーバーで乗り換えてウィニペグに着いた。ここでチャーチル行きの列車を待つことになる。チャーチルまで飛行機が飛んでいるのだが、このツアーは片道、列車を使うというこったものだった。

 
10月28日。ウィニペグの鉄道駅でツアーのメンバーが勢ぞろいした。サンディエゴの夫婦、ミシガンの夫婦、ドイツからの夫婦、一人旅のご婦人、地元の若いカップル、そしてガイドである。定員は20人だから人気はそれほどでもないツアーといえる。

 
10月30日、午前8時過ぎにチャーチルに着いた。予定より早い到着だ。すぐに迎えの車に乗ってチャーチルの観光。そのあと、いよいよツンドラバギーに乗って、ツンドラロッジに向かった。

ツンドラバギーは巨大なバスに大きなタイヤをつけたものである。凍ったツンドラの上を安全に走ることができるのだ。4時半に出発、ロッジに着いたのは6時頃である。途中クマはまったく見えなかった。本当にたくさんのクマがいるのだろうか。

ロッジの周りに、やっとクマがいた。1頭がうろついていたのだが、もう暗くなっているので、ライトで照らすと一瞬見えたというレベルであった。

ツンドラロッジはツンドラバギーを改装したものである。ベッドは2段となっている。うれしいことに1台のロッジがこのツアーに貸切になっていた。定員の半分の人数なので、私は上段に人がいない下段ベッドという恵まれた状態を提供された。

ロッジは新装で、寝台の幅が広く、カーテンも2重になっている。これなら3晩を快適に過ごせそうである。ロッジは海岸に面して設置され、クマが現れやすい位置にある。

宿泊ロッジ以外にラウンジとダイニングの車がある。泊り客は全部で30人ほど。集まっての夕食となった。メインにブタのスペアリブが出てきた。ツンドラの只中とは思えない良い味である。おまけにワインも飲み放題。飲みすぎに気をつけないといけない。

10月31日、朝4時。目が覚めて外を見て驚いた。ロッジの周りは雪が溶けていたはずなのだが、一面に白くなっている。雪が降ったのだ。雪を眺めていると10数メートル先に白く動くものがある。

ホッキョクグマだろうか。見ていると、近づいてきてロッジの明かりで、はっきり分かるようになった。ホッキョクグマだ。クマは顔を前に突き出してゆったり、滑らかに歩いていた。闇の中から北国の使者が幻のように立ち現れたのだ。

クマは左手に進みロッジに数メートルまで接近した。次に半円を描いて右手に向かった。私はただうっとりと眺めていた。写真を撮ろうとは思わなかった。カメラを取り出そうとする間にクマがいなくなるかもしれない。それに、窓越しの夜ではろくな写真にならないだろう。

クマとの貴重な時間を大事にしたかった。やがてクマは夜の中に消えた。私は急いで支度してカメラを提げてロッジのデッキに出た。どこにもクマの姿はない。軽い吹雪になっていて小雪が吹き付けてくる。

私の心は満足と感謝で一杯だった。いかにも北国らしい環境でホッキョクグマを見る。その願いが早くも実現したのである。

朝食のあといよいよツンドラバギーで出発。午前8時である。バギーの定員は40名。しかし価格設定が高いほうのツアーは20名だけが乗って、全員が窓側に座れるようになっている。私たちのツアーもそうだ。

驚いたことに、このバギーは私たちのグループ10人の貸切にしてくれていた。とても気前が良い。こうなると自由に席を移動してクマのいる側に座ることができる。

ストーブが燃えていてバギーの中は温かい。クマがいたら窓を開いて観察するのだ。さらにバギーの後部に観察用デッキもある。至れり尽くせりの設備といえるであろう。

ロッジから少し行くとガイドのダグが、クマが2頭いるといった。相変わらず私には見えない。しかし、バギーが進んでいくと、やっと分かった。

2頭のクマが雪の中で寝ているのである。平和なものだ。私たちは喜んでたくさんの写真を撮った。このクマはスパーリングをするかもしれないと待つことになった。

そのうちに1頭のクマが動いた。そして寝返りを打って足を伸ばした。どうやら目を覚ましたらしい。もう1頭のクマを小突くので、そちらも目を覚ました。起き上がったクマたちは、ブラブラ歩いたり、鼻を突き合わせたりしている。やがてクマたちはじゃれはじめた。

そのうちに取っ組み合いだ。ついに1頭が立ち上がった。もう1頭も続く。立ち上がっての取っ組み合いのうちに、離れて手で押し合うようになった。まさにボクシングのスパーリングの一場面である。

クマたちは口を開いて笑っているようで、いかにも楽しそうだ。雪の積もった、凍った岸辺で場所も最高である。クマたちの足首まで雪に埋もれている。

やがて1頭が四足になり、前足を1つ上げた。ちょっとタイムといっているようだ。

遠くに1頭のクマが現れた。こちらのクマは警戒するように首を伸ばした。向こうのクマは遠巻きにして去っていった。

また1頭、大きなクマが現れた。クマはどんどん近づいてくる。今度は知り合いらしく、鼻をつき合わせた挨拶の後で、3頭とも寝転んだ。しばらくして2頭がスパーリングを始めた。スパーリングは長く続いた。体を離して構えあったり、じゃれて噛み付いたりとポーズも多彩である。こうしてホッキョクグマとの素晴らしい1日が始まった。

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1頭のクマがツンドラバギーに近寄ってきた。見下ろすとクマは本当に大きい。そしてクマは立ち上がって、バギーに寄りかかって顔を伸ばした。ツンドラバギーの宣伝用の写真にそっくりなポーズだ。

しばらくして場所を変えることになった。砂浜をほじって何か食べているクマがいる。海藻らしいが、紛れ込んでいる動物を食べていることもあるそうだ。カラスが近寄って来るとクマは怒ってカラスを追い払った。

今度は遠くから1頭のクマがまっすぐバギーのほうへやってきた。凍った渚を滑らかに動いてきて様になる。そうだ、あたりの景色は憧れていた景色そのものだ。

渚のかなりの部分が凍っている。海にも氷片が漂っている。そして海岸に接して、浅い池や湿地があり、これは完全に凍結している。雪はいたるところにある。

このような様子になると、ホッキョクグマシーズンの最盛期になるそうだ。今は、ハロウィーンの頃が目安になるらしい。今日は将にハロウィーンである。幸運にも、最盛期の始まりにめぐり合うことができたのだ。

スパーリングをしているクマがいるというのでまた場所を移動した。ひときわ大きなクマたちである。クマたちは何度もスパーリングをしてくれた。

雪が降ってきたので、雪の中での格闘である。時にはダンスをしているようなポーズにもなった。それから何頭ものクマに会った。雪の中に身を伏せてウトウトしているクマも多い。エネルギーの節約を図っているのだそうだ。昼食は寝ているクマを眺めながら、スープとサンドイッチである。

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十分にクマを見て満足した客を乗せてバギーはロッジに向かった。2頭のクマが寝ているところに止まって、またクマ観察。しばらくするとクマたちは体を起こした。そしてツンドラバギーの下までやってきた。

あらためて、とても大きなクマだと感じる。1頭は上を向いて伸び上がり、見下ろす私たちのすぐ下まで顔を伸ばした。フーというクマの鼻息が聞こえる。このクマは私たちを美味しそうだなと思っているようだ。

私は恐ろしくなって身を引いた。どうしても届かないと知って、クマは地面に降り、残念そうに下を向いて紫色の舌を出した。クマたちは、しばらくの間、ウロウロとバギーの周りを回っていた。

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「完璧なフィナーレね」誰かがいった。

「クマは何頭出ましたか」

私は克明にメモを取っているバーバラに聞いた。

「延べ27頭よ。同じクマに何度か会っているでしょうけどね」

ダグの意見では10頭以上の違ったクマが出たはずである。もちろん、今シーズンでは最高の経験だそうだ。ロッジに着いたのは4時過ぎであった。

夕食後、急に風が強くなった。バギーの出入り口の扉を開閉するのに苦労するほどの勢いである。吹雪がやってきたらしい。                                                                                         

11月1日。朝も吹雪。バギーで行くとロッジの近くにクマが1頭いた。後ろ足を前に出した固まったポーズである。吹雪に対抗しているのだろう。しばらくすると起き上がってバギーのほうにやってきた。

次に親離れしたばかりと思われる小さなクマが登場。このクマは遠くで私たちのバギーを見つけると2本足で立ち上がって様子を見た。そして好奇心満々の様子で歩いてきた。しばらく私たちのバギーの周りを回ってから、近くに停車したもう1つのバギーの下にもぐって装置を点検していた。

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次第に雪は小降りになってきたが、強風は続いた。うっすらと雪が積もった、凍った池の上でスパーリングが始まった。やはりクマたちは楽しんでいるようで、顔が笑っている。

スパーリングは長く続いた。腰から崩れ落ちている時もある。氷の上で滑りやすいのだろうか。スパーリングの経過もよく分かった。もみ合っていて、一方が押しつぶそうと立ち上がり、もう一方がこれに応えて立ち上がるとスパーリングになるのである。一方が気が乗らないと中断され、鼻で押し合っている。すこしずつ場所を変わってスパーリングは繰り返された。

海岸に行くと海の凍結はさらに一歩進んだようだ。氷片が集まって層になっているところがあちこちにあった。こういったところから、沖に向かって凍結していくのだろうか。この荒涼とした海岸をクマが歩いていた。強風に耐えるため姿勢を低くし目を細めていた。

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雪を帯びたブッシュの中を単純に歩いているクマも美しい。やや黄色味を帯びた毛皮はふわふわして、雪が続くせいか、汚れがなくきれいになっている。

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凍った池では、氷の上をヒタヒタとこちらに迫ってくるクマの姿があった。ホッキョクグマも氷の風景も美しい。両方が一緒になった姿はこの上もない。

子連れの母グマが残されたハイライトであろうが、めぐり合うことはなかった。母グマはオスグマを恐れるので、シーズンの後半によく姿を見せるのだとダグはいっていた。

ロッジに向かう途中、3頭のクマが氷の上を去っていった。クマのシルエットが氷の上にできていた。今日のフィナーレも見事である。バーバラによれば、この日のクマは延べ32頭。

11月2日。風が弱くなったが、寒さは続いている。ロッジの周りに3頭のクマがいた。バギーは出発しても、しばらくはこのクマたちを見物である。 少し進むと、明らかにバギーに興味を持ったクマが小走りにやってきた。凍った池の上なのに平気で走ってくるのである。

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海岸に近づくと、スパーリングしているクマが2頭。凍った池の岸辺で、雪もたくさんある。遊ぶのには良い場所だ。クマたちは特に楽しそうだった。休んでは遊び、場所を少し変わっては遊んでいた。

しかしだんだん真剣になってきて、牙をむき出した顔を押し付けあった。一歩間違うと怪我をしてしまう。

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大きな湖の湖岸で2頭のクマが休んでいた。凍ったばかりの湖面は美しい。うっすらと積もる雪が複雑な模様を作っている。ギザギザとした盛り上がりもある。波がそのまま凍ったのだろうか。その湖面を1頭のクマが歩いてきた。もう1頭も続く。岸辺のクマは、いつのまにか3頭になっていた。視野の中に5頭のクマがいるのである。

海岸の浜辺にキツネがいた。右手にはクマがいるのに、皆、クマを放り出してキツネの撮影に熱中しだした。クマに飽きてきたらしい。私はクマに失礼だと思っていたが、良く見ると綺麗なキツネである。足や尻尾は黒くなっている。私もキツネ撮影会に参加してしまった。

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海の凍結は昨日よりも、さらに進んでいた。岸辺にはたくさんの氷が打ち上げられている。波間に漂う氷も増えてきた。天気が回復してきて、太陽が現れた。3日間で初めてである。

陽光を浴びて氷がキラキラと光った。この美しい世界にクマがいた。海藻をほじって食べている。やがてクマは歩き出した。氷をバックにしたクマは、まさにホッキョクグマである。

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海と氷とクマを眺めながら昼食。全員が寛いでいて会話が弾んだ。

「ダグ、どうしてもっと遅くまでツアーをやらないんだい。温暖化が進んでいるのだろう」

「いや、遅いツアーはリスクが多い。俺は昨年11月21日から24日のツアーをガイドしたのだが、海氷が発達したのでクマの多くが海氷の上に出てしまった。クマはいるのだが遥か遠くにということがほとんどだったよ。その後、氷が溶けてまたクマは陸に戻ったけれどね。ベストな時期は11月の第1週と第2週だと思う」

バーバラは昨年、このツアーより1週間遅いツアーに参加している。3日間で67頭のクマが出て、コグマも活躍していた。しかし、雪は積もっていず、スパーリングするクマはいなかった。

年によって、様子は違うのだ。たまたま都合のつく時に出かけて、これだけの経験をできた私は、とても幸運だったのである。

海岸沿いに車を進めていくと大きなアゴヒゲアザラシが氷に囲まれた岩の上に寝ていた。干潮になったのに気がつかず取り残されたらしい。空腹のホッキョクグマがやってくるかと車を止めてしばらく待った。そのうちにアザラシも状況の深刻さに気がついて、岩を飛び降り、氷の上をのたうって海に向かった。

楽しい時も終わりに近づいた。4時半にはツアーバスに乗り換えて空港に向かわなければならない。クマを見つつ氷雪の風景の中を引き返していった。

「バギーを運転したい人」

突然ボブがいった。若者とご婦人たちが喜んで手を上げ、陽気な騒ぎになった。いかにも北米らしい。これがフィナーレだろうか。私はやれやれと騒ぎを見ていた。

しかし、次にはタカシ、タカシとのコールになってしまった。こうなれば期待に応えなければならない。ゆっくり、難しくないところを行けばバギーの運転は簡単である。しばらく走らせて手を上げて喝采に答えた。

サンディエゴの夫婦が叫んだ。

「あれはなんだろう」

ほっそりした針葉樹の先端に丸いものが載っている。ダグが双眼鏡でしばらく見ていった。

「やったね、シロフクロウだ」

シロフクロウはほとんど真っ白な巨大な鳥である。双眼鏡でやっと分かるレベルであったが、全員、満足した。これでちゃんとしたフィナーレになった。

さらに2、3頭のホッキョクグマに会って、ツアーバスとの乗り換え地点に達した。皆の要望に応えてバーバラがいった。

「今日のクマは29頭。3日間で88頭よ」

驚くべき数である。前回のツアーでバーバラが遭遇したクマより多い。しかし、前回、彼女はホテル泊まりを選択していて、ホテルとの往復に余分な時間を掛けている。前回も、今回も同じようにたくさんのクマが出たというのが妥当な結論だ。

バスの運転手は30日のときと同じであった。たくさんのクマと出会ったことを喜び合いながら空港に向かった。

空港にはウィニペグ行きのチャーター機が待っていた。やや古ぼけたプロペラ機であったが、チャーター機は滑らかに離陸した。

眼下には蛇行した川や、無秩序に伸び広がった湖が氷結していた。ヨーロッパ便でシベリア北部の上空を行くとき見下ろす風景と同じである。

こんなところを旅することができるとは、とても思えない様子の所である。じきに雲がこの景色を覆ってしまい、ホッキョクグマの王国は遠い世界のものとなった。

 帰国してから調べると、10月28日に最高気温が氷点下10度という寒波が来ていたと分かった。その後少し温かくなったが、最低気温は氷点下数度。そして11月1日、2日はまた寒くなり、最高気温が氷点下数度、最低気温が氷点下10度以下となっていた。

温暖化の影響を受けない頃の平均的なチャーチルの天候に、ほぼ戻っていたといえよう。そして11月上旬のホッキョクグマの活動は、ここ数年では最高のレベルと報告されていた。

さらに、11月13日にはチャーチル付近の海がほぼ完全に凍結し、ホッキョクグマの群れの大半が凍った海に去ってしまう展開となった。今年は特別な年であったのだ。

この旅行記は4Travelにも掲載しました。状況を示す写真の数を多くしてあります。