ナミブ砂漠とサハラ砂漠の旅行記


ナミブ砂漠

アフリカ南西部の片隅にナミビア共和国がある。

そこにナミブ砂漠が横たわる。地球上で最も古い砂漠で、中心部には、赤っぽい砂でできた砂丘が連なっているという。

その高さは200メートルをはるかに越え、世界最大級だそうだ。本格的な砂丘を見ようとすればここが第一の選択肢となるであろう。

ガイドブックで眺める写真はことのほか美しく、どうしても訪ねてみたくなった。

ところが、計画を立てる段階になって苦労した。ナミブ砂漠の中心までの良い交通手段がないのである。

いろいろ迷ったあげく、四輪駆動車を借りて、首都のウィントフックから走っていくことにしたが、アフリカの荒野を旅するのでやや不安であった。

シンガポール航空でヨハネスブルグまで飛び、乗り継いでウィントフックへ入る予定である。

砂漠だけでは退屈かもしれないと、シンガポールから寄り道してボルネオも訪問することにした。熱帯雨林の本場を見ようと考えたのだ。

出発が迫ったころ、遅ればせながらインターネットで情報を取った。ナミブ砂漠で検索していると、ナミビア政府の観光ガイドに飛び込んだ。

なんと、8月には来るなと書いてある。砂嵐のシーズンで、一度、嵐になると数日続くそうだ。

そう言われても、いまさら変更できない。長めに滞在する予定なので、全期間、砂嵐になることはあるまいと判断して決行することにした

                                                                                                                    
2000年8月4日、シンガポール航空のエコノミー席に乗り込んだ時はグッタリした。仕事がめちゃくちゃに忙しい1年間であった。

ウィントフックではカラハリ・サンド・ホテルに3泊した。仕事と長時間のフライトの疲れを取り、レンタカーの四輪駆動車に慣れるためである。

ホテルは部屋も食事も良く、満足できるものであった。地下がスーパーマーケットとなっていて、大量のミネラルウォーターを始めとする旅行用の買い物にも便利だ。

調子を狂わされたのはレンタカーだ。検査が終わっていないとかで、貸し出した翌日、1-2時間だけ追加検査をするという。

ところが、約束の時間になっても車を取りに来ない。催促のはてに、やっと車を持っていったら、今度は返しに来ない。

ウィントフック2日目は、レンタカー屋への電話連絡で大半を過ごした気がする。そういえば、この車は、図体は馬鹿でかいが、いやに古い。不安材料が増えてきた。

四輪駆動車には乗ったことがなかったので、日本の自動車学校で1日コースの練習をしてきた。

その甲斐あって、近くの公営ゲーム・パークへのドライブでは何事も起こらなかった。

ゲームとは狩猟対象のケダモノのことだが、むろん猟をせずに保護することになっている。現実にはケダモノが極度に少なかった。密猟が盛んだったらしい。

私営のゲーム・パークであるゲスト・ファームも2か所に出かけた。肉食獣と草食獣の棲みかが分けられているなど、いずれもサファリ・パークに似たところがあった。
 

8月8日。いよいよナミブ砂漠だ。中心部のソススフレイを目指して、朝食もそこそこに出発した。

前日、ソススフレイのロッジに電話すると、天候は今の所良いというので、急いで到着して、夕方に見物しようと考えたのである。

はじめのうちは舗装された立派な国道であったが、ナミブ砂漠へ向かう枝道に入ると、舗装は消えた。

車のわだちの跡が深くえぐられていて運転しにくい。おまけに、ほとんど人家がなく、すれ違う車も稀である。岩も転がっている。

下り着いたソリテールでガソリンを入れるはずであったが、売り切れという。ソススフレイまでガソリンが持つかと不安になった。

気がはやって、スピ-ドを上げた。砂利道だが、道は大分良くなっているし、車の数も増えた。観光のメインルートに出たのだ。

車はパチパチと砂利をはねていた。やがて、その音が激しくなった。

「大丈夫かしら、一寸ヘンよ」

「なーに、砂利が多いからさ」

しかし、車の揺れも激しくなった気がする。路肩へ寄せて降りてみて、ガッカリした。後輪がパンクしてぼろきれのようになっている。

ジャッキの位置などはあらかじめ聞いていたので、何とかなるだろうが、慣れない、しかも大型の車なので、相当に苦労するであろうと思った。後ろから走ってきた車が私たちの車を抜いて、すぐに止まった。

「大丈夫か、手助けしようか」

「頼む、慣れない車なのだ」

私はプライドを投げ捨てて頼んだ。

「よし」

ワゴンからすぐに、屈強な男たち数人が降りてきた。

ドイツからの観光団だそうだ。手分けして、テキパキと作業を進めてくれて、15分ほどでタイヤは無事に交換された。

私だけでは何時間かかっても、とても出来なかったろう、と分かった。

まず、ナットが極度に固く締めてあって、大男が渾身の力を振り絞ってやっと回ったのである。

そして、砂地にジャッキがめり込んでいった。素早く、平らな石が探し出されて、ジャッキの下にあてがわれた。

これで、潜らなくなったのだが、私にはとてもそんな知恵はない。

「これで、ビールでも飲んでくれ」

私の差し出すお礼を、笑って振り切り、ドイツ人達は去っていった。

じきにセスリウムに着いた。ナミブ・ナウクルフト国立公園の入り口で、ここにソススフレイ・ロッジがある。

あらかじめ、4泊の予約をしておいた。部屋はベトミン風のテントであるが、背後に付属するバスルームと玄関は頑固なコンクリート造りである。

注意書きに、砂嵐になったらコンクリート部分に避難して、ジッとしているようにとある。やはり、砂嵐は相当に凶暴なようだ。

ナミブ・ナウクルフト国立公園は日の出から日没までしか開いていない。午後3時にロッジに着いたので、すこしだけ国立公園に入ってみることにした。

じきに写真で見慣れた、薄赤い色の砂丘が広がった。

しかし、雨が多かったのか、まばらに草が生えている。砂丘に足を踏み入れると、足の長い甲虫に出あった。

足で霧から露を集めて飲んでいることで有名な虫だ。トカゲもいた。砂が熱いと、片足づつ足を上げるユーモラスな生き物だ。

しかし、この草が生えている、恵まれた環境では、普通にガサゴソと動いていて、甲虫もトカゲも少しも感動的ではなかった。

やはり、砂漠の中心に行かなければだめだ、明日に期待しようと引き上げた。

入口から中心のソススフレイまでは車で1時間ほどとのことだが、最後の数キロメートルは砂地を行くそうだ。すっかり運転に自信を失ったので、明日はロッジ発のツアーを利用することにした。

8月9日。穏やかな朝である。ガイドは6時半ぴったりにやってきた。他の客はスペイン人夫婦だけだ。

朝の光を浴びて砂丘は濃いオレンジ色に輝いていた。そして、光の当たらない所は黒く、コントラストが鮮やかだ。スプリングボックという小型のレイヨウの姿もある。

進むにつれて、草はなくなり、砂丘は高くなってゆく。ソススフレイの少し手前で、ガイドが遠くにいるオリックスを見つけた。

オリックスは角が長く真っ直ぐに伸びた、大型のレイヨウである。

横から見ると、角が1本に見え、一角獣伝説の原因になったという。乾燥地を好み、ナミブ砂漠を代表するケダモノである。

近寄ってみよう、とガイドに促されて歩き始めた。私は双眼鏡だけ握って出発したのだが、オリックスに20メートルほどまで接近できた。

砂丘をバックのオリックスは、まさに絵になる。スペイン人が望遠レンズを駆使して写真を撮りまくっているのを、悔しく待っていた。

さあ、いよいよソススフレイに着いた。ここに、砂丘に囲まれた池がある。水が溜まっていることは珍しいそうだが、緑を帯びた水が豊かであった。

今年は水がなだれこんだ特別の年だったのだろう。私たちは早速、砂丘を登りはじめた。

かなり進んだところで、トカゲが砂の上を走った。足跡がはっきり残っている。やはり、乾いた砂丘での生き物は様になる。

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小さなピークに着いてみると、前方にはさらに大きな砂丘が立ち上がり、四方に波打った稜線を延ばしている。右前方にも複雑な形の砂丘がある。

ゆっくりとピークで時を過ごしてから、下りはじめた。足を踏み出すと、砂はあくまで優しく足を包み込んだ。そして、稜線が少し崩れ、砂が波紋のように落ちて止まった。

やってきて良かったな。1年間の苦しかったこと、ここに来るまでのドタバタ。その全てを砂が飲みこんで、波紋に変えているようだった。

 
午前のツアーで様子が分かったので、午後に再び砂漠を目指した。通常の道が終わり、砂地となる所に、大きな駐車場がある。

多くの人はここに車を止め、トラックを使ったシャトルに乗ってソススフレイに行くのである。

私たちは駐車場から、すぐに歩きだした。ソススフレイへ向かって流れる、枯れた川の川床を進むことにしたのである。

稀な大雨の時は、ここを通って濁流がソススフレイに達するのだ。川床にはまばらに木が生えていた。さらに、ナラメロンという小型のスイカのような果物が転がっていた。

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しばらく歩いてから、川底を外れて、砂丘の方へ近づいていった。すぐに、平らで、滑らかな砂原となった。 神社の白砂のようだ。広い砂原の向こうに、大砂丘が静かに横たわる。

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日が落ちてきたので、砂丘の影の部分は再び深いシルエットとなっている。この壮大な空間を私たちは二人だけで歩いていった。

帰りのドライブ中に、2羽のダチョウに会った。ダチョウは砂丘をバックに走っていったが、身体を上下させるので踊っているように見えた。

8月10日。再び好天である。日の出と共にゲートをくぐってひた走った。駐車場で、トラックのシャトルに乗り、再びソススフレイを目指した。

観光客が登り、昨日私たちも立った砂丘は砂丘群の前衛である。その後ろにある巨大な砂丘に登ろうと考えたのだ。

私たちは、昨日の砂丘から一度下り、また一登りした。

砂丘の斜面に2人の影が長く伸びている。着いた砂丘のピークを越え、左手にカーブする長大な稜線をさらに登っていった。

左側の斜面は斜めにスッパリと切れていて、日が当たらないので、深い赤色をしている。

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左側からやってきた別の稜線と合わさると、稜線のルートは、今度は右に大きく曲がった。

右手にも左手にも別の砂丘が広がり、景色はこの上もない。しかし、進むにつれて砂が崩れやすくなり、頂上の一角に取り付くと疲れきった。

さらに少し先にやや小高い所がある気もしたが、もう十分だと座り込んで、ゆっくり景色を眺めることにした。

この砂丘の山腹はきれいな風紋に飾られている。そして、谷間に近い所には、女性の肌のように、滑らかに起伏したひだが付いている。

その向こうに再び大砂丘が立ち上がる。ウネウネと続く稜線は波の線のようであるし、万里の長城のようでもある。大砂丘群は地平線に至るまで続いていた。数10キロ先に大西洋があると知らなければ、ここは世界のはてだと思うであろう。

視線を向けることのできる全範囲に、この雄大な景色が広がっていた。そして、他には誰もいなかった。私たちは約束の地にいる、と思った。

8月11日。トラックのシャトルバスを途中下車して、デッド・フレイを目指した。大砂丘の谷間を行くルートで、柔らかな曲線の小砂丘が目についた。

デッド・フレイは枯れはてた池で、死んで黒くなった木がまばらに立っていた。

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帰り道、前方に広がるのはソススフレイの大砂丘群だ。昨日歩いたルートがよく見える。しかし、稜線から砂が巻き上がっている。風が出てきたのだろうか。

夜、テントの屋根がガサゴソする。ケダモノでもいるのかと疑ったが、いや風だと思いなおした。

夜中に目が覚めると、風が強くなっている。テントはバタバタと音を立てるし、ヒューと風の音も聞こえる。

砂嵐かと外へ出てみたが、何事もないように、澄みきった星空が広がっていた。

 
8月12日。出発の日であるが、急いで砂漠を走って、トラックシャトルの乗り場まで行ってみることにした。

オリックスの写真を撮らなかったことが残念で、もう一度チャンスをと考えたのである。

道半ばで、妻が叫んだ。

「あなた、オリックスよ」

道の右手すぐ近くにオリックスがいるではないか。車を止めてカメラを取り出していると、オリックスはスタスタと道を横切り、左手に移った。

足早に去っていこうとしたが、私がカメラを構えると、そうですか写真ですかとばかりに立ち止まりポーズをしてくれた。

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目的を果たして、リラックスして車を走らせていると、ソススフレイの方角にモヤが立ちこめている。砂嵐であろうか。実際にそうで、車は砂のモヤの中を行くようになった。

オリックスがまた1頭、道の脇にいたが、吹きつける砂で迷惑そうだった。シャトル乗り場に着くと、モヤは一層濃くなった。風も強い。急いで引き返そう、帰れなくなる。

砂嵐は勢いを増してきた。砂は道の上を這うように進んでいる。時には濃霧のようになり、何も見えなくなる。ライトを点けてノロノロ運転を繰りかえし、やっと砂嵐から脱した。

ロッジのあたりも、薄いモヤがかかったようになっていた。チェックアウトの手続きをしていると、マネージャーのブリトンさんがやってきた。

「ヤー、あなたの出発に合わせて始まりましたよ」

この先どのようになるのか、想像すると怖い。これまでの好天に感謝して慌てて出発した。

帰り道は速度を落としてゆっくりと進んだ。人気のない所で、パンクや故障になったらと、改めて恐ろしくなったのである。

最初の計画では第二の都市であるスワコプムンドを拠点にしてソススフレイへ往復する積りであった。

しかし、このルートが水害にあったとの情報があり、首都からのルートに変更したのである。

実際に走ってみて、メインルートはスワコプムンドからのであると、はっきり分かり、計画を変更したことを後悔していた。

幸い何事もなく、舗装された国道に飛び出すことができた。

 
ウィントフックからヨハネスブルグに飛び、時間待ちに1泊した。。

その後、立ち寄ったボルネオでは何事もなく熱帯雨林を楽しんだ。

 

サハラ砂漠

2011年の春休みの旅はアラブ世界を標的にした。一番の目的はサハラ砂漠である。

ナミブ砂漠で砂漠は満喫したはずであるが、世間的には砂漠といえばサハラである。

ことに日の出と日没の評価が高い。ナミブ砂漠では、立ち入り時間の関係で、日の出や日没を見ることは、公園内でキャンプしない限り不可能であった。

もう一度、砂漠に行き新しい経験をしようと思った。

 例によって半年前に準備を終え楽しみにしていると、また事件が発生した。チュニジアに端を発してアラブ民主化のうねりが巻き起こったのだ。

旅行先であるモロッコやヨルダンも例外でなくデモが始まった。しかし、注意深く情報を集めてみると、どうやら大事には至らないようで、予定を変えないことにした。

そして、出発直前、東日本大震災に続いて福島原子力発電所の事故が勃発した。

東京にいる家族のことを考えて、旅行を中止すべきではないかと真剣に悩んだが、最後の決断は決行であった。

2011年3月15日の夜、関空発のエミレーツ航空でドバイに飛んだ。赤ちゃん連れのヨーロッパ人が多く、日本脱出が始まったなと思った。

乗り換えてカサブランカに着き、ロイヤル・マンスール・メリディアンに一泊。翌17日、モロッコ航空でマラケシュに到着した。

宿泊先はラ・マムーニア。広い庭にはオレンジやバナナが実っていて、散歩すると気分が良い。

大震災と原発事故で国が滅びるのではないかと暗い気分であったが、なんとかなるだろうという気がしてきたから不思議である。

ホテルはマラケシュ観光の中心であるジャマ・エル・フナ広場まで歩いて10分ほどの位置にある。2日間マラケシュを観光した。

 
さて、サハラ砂漠である。個人旅行で行こうとすると交通手段が難しい。そこで、ホテルに交通を依頼した。アトラス山脈を越えたところにDar Ahlamというリゾートホテルがある。アメックスに、ここへの宿泊と交通を一緒に交渉してもらった。

手配は8ヶ月前に終わっていた。

 3月19日、朝8時。トヨタ・ランドクルーザーがやってきた。ベルベル・ボヤージュという会社が手配を受けたのだそうだ。運転手は善意の塊であった。アトラス山脈で雪遊びをさせてくれ、さらに寄り道をして、アイト・ベン・ハッドゥが見えるところまで連れて行ってくれた。これは日干しレンガで作った城砦、すなわちカスバで、その見本となっている。

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 ランドクルーザーは脇道に入った。カスバがきれいに見える。

川を渡って目的のホテルに着いた。このホテルはカスバを改装したもので、私たちは滞在を楽しんだ。

翌日もランドクルーザーがやってきた。運転手は代わっていたが、彼も善意にあふれていた。トドラ渓谷にまで寄り道してくれたのである。

そして、サハラ砂漠に接するメルズーガに着いた。メルズーガでの宿はKasbah Mohayut。すぐ後ろに砂丘が広がっていて、評判の良いところである。満室になってはと8ヶ月くらい前からメールで宿泊、さらにラクダや四駆によるツアー、そしてフェズへの交通を依頼していた。

早速フロントに行って、夕方のキャメル・トレッキングについて確認した。出発は5時からとのことである。

まだ時間があるので、とりあえず宿の外へ出て砂丘に向かった。砂丘には車の跡があり、ごみも見え、少しがっかりした。

さあ出発だ。ラクダ引きと助手が私たち2人のためにやってきた。

私は初めてラクダに乗るので、おっかなびっくり、握り棒につかまった。ラクダが立ち上がると、たしかに高い。しかし、意外に安定している。

ラクダ引きが先頭に立ち、ゆっくりと砂丘を進んでいった。私はすっかりラクダに乗るのが気に入った。砂丘を下るときに気をつければ、快適な道のりである。

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ラクダ引きは愉快な男で冗談を言ったり、カメラを預かって写真をとってくれたりとサービス満点だ。

やがて砂丘のごみがなくなり、それらしい雰囲気になってきた。

ゆるやかな砂丘を登ったり降りたりして、だんだん高い砂丘に近づいた。砂丘は夕日にオレンジ色に輝き、陰影が濃くなった。

30分ほどラクダに乗ってきたであろうか。大きな砂丘の近くでラクダを降り、素足になって登頂を開始した。砂丘の稜線は鋭く、最後には手も使ってよじのぼった。

景色を眺めながら日没を待った。砂丘の赤みはいよいよ増し、影も長くなった。残念ながら、しばらくして太陽は雲に隠れたが、日没の寸前に顔を出した。

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3月21日、4輪駆動車による砂漠見物に出発した。砂丘を回りこんで、アルジェリアとの国境近くに出た。

広々とした砂礫地帯に岩板が露出していた。その表面に、節のついた細長い化石がたくさん見える。

化石は大きく、長さ50センチを超えるものも、あちこちにある。素人が、野外に見に行ける動物の化石としては立派なものだ。

この化石を運転手は魚だというが、とても魚とは思えない。私は貝だろうと主張した。しかし、大きいのはぶよぶよとした太い管のように見え、不思議であった。

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後で調べてオルソセラス(直角石)と分かった。イカ、タコの仲間で、アンモナイトの先祖筋に当たる。年代的には三葉虫とほぼ同じ時代のものである。
そして移動して、岩片が転がっているところに来た。小さなアンモナイトがいっぱいある。

私はアンモナイトと小さなオルソセラスを少しばかり記念に頂くことにした。

日本発のツアーの宣伝の中に、アンモナイトと三葉虫の化石を探す、というのがあったので三葉虫も目標にした。しかし、一つもない。

「三葉虫がないかなー」

運転手に聞いてみた。返ってきた答えは

「インシャラー」

神の御心のままにでは、あきらめたほうがよさそうだ。ゆっくりと過ごして3時前にホテルに帰った。

今日は砂漠の中のテントまで行く日である。しかし、体調を考え、結局、断念した。

そこで、キャメル・トレッキングを長時間にしてもらった。定刻の5時より30分早い出発である。今日はラクダ引きが一人だけ来た。実直そうな若者である。

ラクダ引きはテントに泊まる人たちの後を追うコースを取ってくれた。
私たちは砂丘を1つ1つ越えていった。柔らかな砂丘の線、砂丘の長い影、うねうねと波のように連なる遠くの砂丘。

昨日も見た景色だが、これがずっと続く。

昨日登った砂丘も背後になった。ここは砂丘の核心部だ。私はただうっとりと眺めていた。

至上の時である。素晴らしい景色を繰り返し眺め、記憶の限界に達すると突然、もうこれ以上はないという認識に達するのかもしれない。

ラクダ引きは悠然と進み、そしてテントに泊まる人たちより左側の進路をとった。

ついにラクダを止め、高い砂丘に登った。日没を待つのだろう。休憩しているテント泊まりの人たちが右下に見える。

その先の砂丘の麓にはテントもある。テント泊まりと同じような位置まで来てしまったのだ。

今日は晴天なので完璧な日没が期待できる。私たちは稜線にまたがって時を待った。日が沈むにつれて、砂丘の色はさらに濃くなり、コントラストも強くなった。

ついに日を浴びた正面の砂丘まで陰影がはっきりした。稜線からうっすらと砂が飛んでいく。

右側の砂丘の平らな面をベールがなびくように砂が移動して糸のように落ちていく。砂丘のオレンジ色が一段と赤味を帯びた。

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それにしても、あまりに砂丘群の奥まで来ている。そういえばラクダ引きがぽつんと尋ねたのだった。

「このまま日没まで居るかい」

帰りを心配しはじめたのかもしれない。しかし、私はぎりぎりまで粘った。こんなに恵まれた時はめったにない。

日没直前、やっと、これからは昨日と同じだと立ち上がった。ラクダ引きもほっとしたように続いた。

砂丘を駆け下りラクダのところに戻ると、もう、日没後の世界だ。それでも残照によってピンクの砂に淡いコントラストができている。

ラクダ引きは行きの時とは違った真剣な急ぎ足でラクダを進めていった。かなり戻っても、メルズーガの町ははるか彼方だ。

映画で見た、砂漠で迷ったシーンを思い出した。でも、ここには信頼できるラクダ引きがいる。

私は幸せの残像を抱いて夢の中のように下っていった。妻は高らかに月の砂漠を歌っていた。ホテルの近くに着いたときは真っ暗だった。7時10分である。

宿に帰っても私はまだうっとりしていた。なんとも信じがたい幸運であった。テントに泊まらずに最高の景色を見てしまったのだ。

ナミブ砂漠を一歩越える経験であった。

しかし、写真にしてみると、この違いを表現することは難しかった。

おまけに砂丘の大きさではナミブ砂漠のほうが優れている。両方を経験したから完全になったともいえるであろう。

3月22日。再び4輪駆動車で砂漠を旅した。巨大なオルソセラスがあったが、それ以上変わったこともなさそうだった。そこでエルフードの町に向かってもらった。

化石を売る店で、三葉虫の化石を買うためである。運転手は大きな店に案内してくれた。

まず作業場に行った。切り出したばかりの三葉虫を含む岩板がごろごろしている。そして技術者が周囲の岩を除いて三葉虫を浮かび上がらせていた。
店に入ると、実にたくさんの化石がある。三葉虫の化石は偽物が多い。偽物をつかまないために少し勉強しておいた。

ポイントになるのは、気泡がないこと、複眼が見えること、さらに母石から化石へ繋がるひび割れのあることだ。

明らかに偽物、いやお土産物が並んでいるところもある。そこは避け、それでも、やや大衆的と思われるコーナーで探すと複眼のはっきりしたのがあった。

ひび割れは見えなかった。もう一つ、複眼は出ていないが、ひび割れが明確に続いているのがあった。

化石の形も気に入った。複眼のあるのはS字型に少しうねっているし、ひび割れのはっきりしたのは丸まろうとしている。

ダイナミックだし、偽物を作るのは大変だろう。2つをかごに入れた。値段を聞いて値引き交渉にかかったが、店員は憤然として

「安いものは他にいっぱいあります。きれいに仕上げるには、手間がかかっているのです」

といって、私のかごを持って行こうとした。やはり本物だと思ったが、勢いに負けて、2つで15000円くらいと結構高く買ってしまった。

帰国して調べると、複眼があるのはファコブスという、モロッコの三葉虫の代表的仲間と分かった。

4億年ほど昔の生物である。詳しく見ると、この化石にも、母石から続くひび割れがあった。

ある日、拡大鏡を買ってきて複眼を見た。たくさんの隔壁の中に、半透明のレンズ状のものがそれぞれ入っていて、光を当てるとキラキラと光った。

三葉虫のレンズは方解石だというのが納得できる。こんな小さな構造が何億年もの時を経て保存されているとは感動的だ。

店員が不当に高い値段をつけたのではないことも分かった。

 3月23日。朝のキャメルトレッキング。曇りであったが、それなりに楽しめた。

そしてフェズへの大移動。500キロほどのはずである。朝8時、宿で手配してくれたベンツのグランタクシーに乗って出発した。ベンツといえば聞こえは良いが、20年物といった古い車である。

モロッコではベンツは古いので安ものという気がしてくる。
グランタクシーは物騒だという人もいるが、特に危険な目にも会わず、 4時過ぎに無事フェズに着いた。宿はソフィテル・パレ・ジャメイ。フェズで一番評価が高いホテルである。

アラビアのオリックス

モロッコからヨルダンを経てドバイに着いた。タクシーでアル・マハ・リゾートに向かった。

砂漠の中の高級リゾートで、絶滅の淵から蘇ったアラビア・オリックスの保護区を兼ねている。

アラビア・オリックスはナミビアのオリックスの親戚で、すらりと伸びた角を持っている。

体毛がほとんど白で、ナミビアのよりも美しいとされている。これを見るのが訪問の主目的だ。

ゲートから、広大な敷地をメインロッジに向けて走っていると早速オリックスが登場した。タクシーの運転手は
「話には聞いていたがはじめて見た」

と口をもごもごさせて感心していた。砂丘の上にいるから写真には絶好だが、私はカメラを取り出さなかった。たくさんいるはずだから、焦ることもないと思ったのだ。

チェックインのときに、アクティビティーとしてはゲーム・ドライブとキャメル・トレッキングを選択した。担当してくれる、日本人の係員と話した。

「ゲーム・ドライブでオリックスの写真を撮るのを楽しみにしています」

「それが、最近はゲーム・ドライブではあまりオリックスに会わないのですよ」

私はとても驚いた。先ほどオリックスの写真を撮らなかったことは失敗だったのだろうか。

このリゾートでは、それぞれの部屋は独立棟で、プールつきである。さすが豪華リゾートだ。寛いでいるとプールの先をオリックスが歩いていった。

極端に数が少ないのではないらしい。

ゲーム・ドライブに行くために、部屋の外に出たら、またオリックスがいた。喜んで写真を撮っている私に、迎えに来たバギーの運転手が、もっと良いところがあると案内してくれた。

芝生のところに数頭のオリックスがいた。しかも1頭は子供で、じっと私を見つめた。私はたくさんの写真を撮った。

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ゲーム・ドライブでは砂丘を目指した。砂丘の規模は小さいものの、風紋もあり、写真にすると、様になる。

たしかに、オリックスは出てこない。やっと砂丘の高いところに現れたが、カメラを向ける前に姿を消した。

それでも、砂丘を出る寸前にオリックスに出くわした。砂丘のオリックスの写真を撮れてやれやれである。

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急いで引き返して、キャメル・トレッキングに参加した。ラクダが立ち上がるときと座るときは危険だからと、しっかり注意を受けた。

客は、皆、冒険を始めるといった様子である。しかし、歩き出した砂丘の道はならされていて、上り下りがなく気楽なものであった。

目的地では飲み放題のシャンパンが待っていた。

翌日。朝食後、メインロッジのテラスで時を過ごした。前方に砂漠が広がり、遠いけれどもオリックスの群れを見ることができるのだ。

オリックスは砂漠を歩いてオアシスに近づいたり、追っかけっこをしたりしていた。

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夕方、リゾートを後にした。目指すのはブルジュ・ハリファ。世界で一番高い建物である。

展望台でドバイの街を見下ろしてから、ブルジュ・アル・アラブへ行った。ここのアル・ムンタハ・レストランで食事するためだ。

これで旅は終わるのだ。