ルワンダのマウンテンゴリラ: ゴリラトレッキング旅行記


g26.jpg

アフリカの中央部の山にマウンテンゴリラが棲んでいる。このゴリラを見に行くゴリラトレッキングあるいはゴリラトラッキングは究極の旅行体験の一つとされている。

私たちも興味を持ったが、さまざまなリスクを考えて先延ばししていた。そのうちに老人というべき年齢になってしまった。ゴリラトレッキングは山道を長時間歩くので、体力がないと参加できない。もう、これ以上延ばせないのである。

2011年の春、翌年に実施するつもりで情報を集めた。もちろん、日本のいくつかの信頼できる旅行会社がゴリラトレッキングツアーを企画している。しかし日程が限られていて、私たちのように2人ともに働いていて、旅行に出られる時が限られていると、なかなかスケジュールが合わない。

そこで海外の会社を検索した。その結果ウガンダに拠点があるヴォルケイノーズ・サファリズ(Volcanoes Safaris)が信用できると判断した。ネットで彼らのサイトを見るといろいろなプログラムが記してある。

マウンテンゴリラは900頭弱が生き残っている。ウガンダ、ルワンダ、コンゴの3カ国に分布しているが、コンゴは治安が悪いので、ゴリラトレッキングの行き先はウガンダとルワンダのどちらかになる。

ウガンダではブウィンディ国立公園に400頭ほどのマウンテンゴリラが、ルワンダでは火山国立公園に250頭ほどがいる。ルワンダでのトレッキングのほうが少しばかり容易そうなので、ルワンダを選んだ。

そして、8月25日、ルワンダの首都キガリを出発する4日間のツアーが見つかった。スケジュール的にぴったりだ。ゴリラトレッキングは人気が高い。8月は休暇シーズンの上に乾季なので、すぐ売り切れになるかもしれない。これだと、1年以上前に予約してしまった。

キガリに入る飛行機の選択は厄介だ。常識的にはナイロビかアジスアベバ経由であろうがアフリカの航空会社の飛行機に長時間乗りたくない。

KLMオランダ航空がアムステルダムから飛んでいるので、ヨーロッパ回りとして、ブルージュ、ボルドーさらにドルドーニュ地方のクロマニョンの洞窟も見るプランにした。20日間の、それらしい夏休み計画となった。

2012年の旅は南極クルーズで始まった。ディナーの会話の一つは旅行先である。過去の話から次のプランとなる。夏の計画はと聞かれてルワンダと答えると必ずびっくりされた。リンドブラッドの客が行くところではないらしい。

詳しく聞いてきた老婦人にはクロマニョンの洞窟も見に行くと付け加えた。なんとなくテーマ性があったので、ご婦人は

「素晴らしいですね。どこの会社のツアーですか」

と尋ねてきた。

ルワンダといえば、思い出されるのは1994年の大虐殺である。ルワンダはその傷跡から立ち直ってきているが、暗い印象は拭えない。さらにルワンダの周辺は紛争が多いところで、また疫病の発生も頻繁である。出発が迫ってくると何度もネットで情報をチェックした。

やはり事が起こっている。隣接するコンゴでゲリラが活躍して難民がウガンダやルワンダに流れ込んでいるのだ。しかし、これ以上悪化する兆候はなさそうだった。

もう何十年もアフリカ大戦争といわれる戦争が続き、飢餓などの間接的影響も含めると数百万人の犠牲者が出ている地帯なのである。

そして7月の末にはウガンダで、さらに8月にはコンゴでエボラ出血熱が発生した。これには驚いたが、ウガンダではどうやら封じ込めに成功したようであった。

行き先の心配をするより、自分たちの体調に注意する必要がある。南極から帰ってから2人とも忙しく、体を使うチャンスが少ない。

これでは高地のジャングルを長時間歩けないと、8月に入ってから北アルプスの入り口に少しばかり出かけてトレーニングした。

そして、風邪を引かないように気をつけた。風邪の症状があると、ゴリラに感染させるといけないのでトレッキングに参加できないのである。

2012年8月19日。成田を出発した。アムステルダムで1泊して、翌日ゲントを訪問し、ブルージュに達した。

ゲントでは神秘の子羊を鑑賞し、鐘楼の上から古い町並みを眺めた。ブルージュには2泊。メムリングなどの絵画を堪能し、石造りの建物が並んだ風景を楽しんだ。

運河クルーズや朝夕の散歩がことに素敵であった。ベルギービールも美味しく、ことにチェリービールは病みつきになりそうだった。

前哨戦を終えて、8月23日、キガリ行きの飛行機に乗った。キガリ経由でウガンダのエンテベに行く便である。

昨年、予約したときには混んだ印象であったが、空席が目立った。やはりエボラ騒動で旅行を中止した人が多かったのであろう。

アムステルダムからの、この便は昼間の飛行である。ヨーロッパ大陸を縦断し、さらにアフリカの中央部まで飛ぶので、私は席を移動して機窓に張り付いた。

ドイツ平原が眼下に見えた。緑が多い美しい田園風景である。 アルプスの末端を越えて、バルカン半島に入ると乾いた景色に変わった。

禿山が多く、すさんだ印象である。ヨーロッパの経済危機の震源はアルプスの南の諸国であるが、その背後にこういった地力の違いがあるのかもしれない。

真っ青な地中海の向こうは白く輝く砂漠だ。ナイル川に近づいていくと、砂漠は茶色を帯びた。でも砂漠であることに変わりはない。

単調な風景が続き、ナイル川が広がったナセル湖の上空に出た。アブシンベルが近いはずであるが、見つけられなかった。

さらに砂漠である。ところどころに岩山があるが、それ以外には、何の変化もない。またナイル川を横切った。岸近くにも緑はない。

ナイル川がこの広大な砂漠に吸い取られてしまわないのが不思議であった。やがて緑と砂漠が混じるようになった。ハルツームの近くだ。

ナイル川が幅広く流れている。そして、少し進むと熱帯雨林が現れた。一面の緑で、林冠が盛り上がっているから、ボツボツとした小さな模様になっている。ナイル川は気ままに蛇行している。

やがて夕方となってきた。機下の緑は変わらないが、ナイルの流れが直線状となった。源流域が近いのだろう。

ルワンダの首都キガリに着いたのは夜。迎えに来た車でキガリ・セレナ・ホテルに向かった。排気ガスのせいでのどが痛くなるし、町並みは貧弱でルワンダの第一印象は良くない。

ホテルに2泊した。ゴリラトレッキングの場所まで夜に移動することはできないので1泊は必須であるが、2泊にしたのは万一飛行機が飛ばなくても、1日余裕があれば何とかなると思ったのである。

キガリ・セレナ・ホテルは要人が利用するホテルだけあって、食事もちゃんとしていた。といっても果物やサラダは避けた。

うっかり下痢でもしようものなら、トレッキングに参加できないし、途中で下痢になっても困る。目的地の火山国立公園の中では、大便は深く穴を掘ってしなければならない。何度も立ち止まって穴を掘っていたらヒンシュクものである。

ホテルの庭は花が咲き乱れて気分が良かった。私たちは観光に出ず、ホテルにこもって過ごした。ツアーの最終日に簡単な観光があるからそれを利用しようと考えていた。

ルワンダは時々、手榴弾によるテロがある。市場など地元の人が集まる場所が標的である。人ごみの中に出かけて巻き添えになってはかなわない。

g3.jpg

8月25日。11時半。ヴォルケイノーズ・サファリズの車がやってきた。新しいトヨタ・ランドクルーザーである。ナイロビから空港に着いたばかりのアメリカ人カップルが乗っていた。彼らと行動を共にすることになる。

早速、ヴィルンガロッジに向けて出発した。3時間のドライブである。キガリを出ると田園風景となるが、熱帯雨林が残っている場所は少なかった。

山が削られ褐色になっているところも多い。ルワンダは人口密集地帯なのである。途中で見えた川について運転手が説明してくれた。大虐殺のとき、この川に死体が投げ込まれビクトリア湖に達したそうだ。

到着したヴィルンガロッジはヴォルケイノーズ・サファリズが直営するロッジである。山の上にあって、眼下に湖が広がり、そして反対方向には標高300メートルから4000メートル級のヴィルンガ火山群の姿が見える。

ヴィルンガ火山群はコンゴとの国境を成している。やや霞がかかっていたが、私たちはこの眺望を楽しんだ。ヴィルンガ火山群の麓が火山国立公園で、ここがゴリラトレッキングの舞台である。

そして良く見ると、山腹のかなり上部まで耕地が広がっていた。ルワンダでのゴリラの生息域は広くないのだ。

ロッジはそれぞれ独立棟の8つの部屋しかない、こじんまりしたものである。このロッジは地元の食材を使い、地元の人を雇い、そして太陽光発電で電気をまかなうというエコロッジの性格を持っている。

素晴らしいことだし、部屋の内装も悪くない。ただし充電のためには管理棟の事務室付近まで行かなければならないという不自由さはあった。

4時半、ロッジよりもさらに高い位置にある広場に行った。ヴィルンガ火山群を背景にして地元の少年少女たちが踊るのを鑑賞するためである。

少年たち長い毛を被って槍や盾を持って踊った。少女たちは頭につぼを載せたままで緩やかに舞った。健康的で迫力もあった。

ロッジの標高は海抜2300メートル。夕方になると火が恋しくなり、多くの人はラウンジに集まって、暖炉の周りに座りワインを飲みながら談笑する。そして7時から夕食となる。

ルワンダはマラリアの流行地で、予防薬など準備を整えてきたが、乾季の今は標高が高いせいもあって蚊の姿はなかった。

夕食は全員集まって食堂で摂る。宿泊客は16人。ロンドンから6人家族がやってきていて、さらに私たち、そして現地の旅行業者が1人いたが、残りはすべてアメリカ人だった。

一人旅のアメリカ人はコンゴでローランドゴリラを見てきたというからすごい。

私の隣はサンフランシスコの弁護士。もう2回ゴリラトレッキングに行っていた。様子を聞くと

「素晴らしかっですよ。シルバーバックがすぐ近くを通りました。写真は撮らなかったけどね」

と答えた。想像以上に興奮すべきことが起こっていると私は感心した。そして

「人生において、本当にすごいことは、しばしば写真に撮れないですね」

と相槌を打った。薬師岳の夜明け、間近でブリーチした南アフリカのセミクジラなどを思い出し出しながら。

 
8月26日。 いよいよトレッキングの日である。3時ごろ目覚めると遠く雷鳴が聞こえた。だんだん激しくなり、4時ごろには雷雨。近くに落雷している。

この調子ではトレッキングどころではないと心配だった。それでもモーニングコールの5時には穏やかになってきた。5時半には朝食。そして6時にはランドクルーザーで出発だ。

アメリカ人2人と私たちが組である。40分少しで国立公園の入り口に着いた。ここに7時までに着かないとゴリラトレッキングの許可証が無効になってしまう。

運転手は私たちのパスポートを預かって手続きに出かけた。火山国立公園にいるゴリラの群れで、訪問することができるのは10である。

どの群れを訪問するかは当日決まる。

7時半ごろになって8人が呼び集められた。同じゴリラの群れを見に行く人たちである。

グループのメンバーは当然、私より若い。私たち夫婦、50代後半の女性1人、一緒の40代のアメリカ人男性。それ以外は30代がほとんどで、ひょっとしたら1人は20代である。

レンジャーの話が始まった。群れの名前はクリャマという。なんだか日本語のようである。14頭のゴリラが作る群れであり、シルバーバックが2頭いる。

シルバーバックは成熟したオスのことで、背中の毛が白くなっているのでそうよばれる。

さらにゴリラの保護にも触れた。ゴリラ見物の許可証は1人1日で500ドルと高い。ごく最近、新しく予約する人は750ドルへと値上げされた。

しかし、このお金の多くがゴリラの保護に使われ、さらに5パーセントは直接地元に還元されているそうだ。

そしてゴリラトレッキングの注意事項が述べられた。参加者はあらかじめ知っているのであろうが確認である。

トレッキング中に追加された注意もあるが、まとめると主なことは次のようになる。

ゴリラに7メートル以内に、こちらからは近づかない。実際はゴリラが寄ってくる。ゴリラを指差さない。大声を出さない。万一ゴリラが脅してきても逃げない。そしてゴリラに向かって咳をしない。

説明が終わると出発だ。といってもまず車に乗る。40分ほどのドライブでトレッキングの出発点となる駐車場についた。

ドライブの後半は四駆でなければ無理な道だった。駐車場にはポーターたちが待っていた。カメラとか水とか重たいので、当然ポーターを雇った。

8時30分、レンジャーに率いられて歩き始めた。時々ぱらついていた雨もやんだ。まずは畑の中の道を行く。ジャガイモや除虫菊が植わっている。

ところどころに家もある。竹で骨組みを作り、そこに泥を塗って壁を作るという日本に似た作り方である。畑といっても、山を切り開いて作っているから、結構、傾斜がきつい。

歩きのペースは、日本でのハイキングより、やや速い。しかし、15分ほど行ったらもう水のみ休憩となった。高度を上げていくとビソケ山らしい台形のシルエットが畑の向こうに鮮やかに浮かぶようになった。

1時間ほどで、国立公園との境界に着いた。はじめに結構飛ばしたので、もう息が上がった人もいる。私たちは何事もない。この調子なら何とかなりそうだ。

g19.jpg

気がつくと1人のトラッカーの姿があった。トラッカーは3人1組でゴリラを探す。朝早くから行動して、前日居たところからゴリラを追っていくのだ。

残りの2人は森の中で活動しているのである。相互に連絡するためにトーキーを持っている。さらに銃も構えている。バッファローに備えてだと説明された。

ルワンダでのゴリラトレッキングではゲリラや密猟者に遭遇した場合に撃退できるように兵士がつき従うという情報もあったが、兵士はいなかった、治安が安定化しているのであろう。

「最も重要な質問にお答えしましょう。これから歩く時間は最大1時間40分です。もっとずっと短いこともあります」

レンジャーがいった。その口調から1時間も歩けば大丈夫だと思った。
 

境界の石垣を越えて、熱帯雨林に足を踏み入れた。ちゃんと登山道ができている。おまけに傾斜もゆるくなった。

原生林の景色は見事だ。緑色の塔のように突き上がったものがある。花の一種だろうか。幹が太くそして複雑に枝分かれした巨木が見える。ハゲニアだ。

ここでゴリラの保護活動と研究を行ったダイアン・フォッシーが「霧の中のゴリラ」という本を著している。ハゲニアはその本でゴリラが好んで集まる木として描かれている。

楽しく歩いていくこと40分ほどで、休憩となった。

「ゴリラは近くにいます」

待望のレンジャーの一言である。

私たちは水を飲み、身支度を点検した。そして、カメラだけを持ってレンジャーに従った。

ジャングルの中にトラッカーが切り開いてくれたルートができている。少し進むと、いた。

g22.jpg

巨大なシルバーバックが藪の中に腰を下ろして食事中である。シルバーバックは葉っぱだけでなく、へし折って引き裂いた小枝まで食べていた。

g1.jpg

別の方角には子供もいる。しばらく写真を撮っていると、シルバーバックが動き出した。まっすぐ私たちのほうにやってくる。

私は刺激しないようにカメラを下ろし、身をかがめた。シルバーバックは悠然と四足で歩いてきた。そして私の目の前、多分2メートルほどの場所を通り過ぎジャングルの中に入っていった。脊中の白い毛が誇らしげである。

近くで見るシルバーバックは本当に大きかった。体長180センチほど、体重200キロに近いというのが実感できる。私はサンフランシスコの男にいった自分の言葉を思い出した。

写真は撮らなかったけれど、脳裏に刻みこまれたこのシーンは一生覚えているだろう。

ジャングルに入ったシルバーバックはまた姿を現した。そして近くにいたトラッカーにゆっくりと手を振った。手はトラッカーに当たったのか、トラッカーはころりと転がった。

客たちは息を呑んだ。トラッカーが襲われたと思った人も多かった。私はゴリラがトラッカーと遊んだのだと思った。後で聞くとやはりそうであった。しかし、200キロに近いゴリラと友人になるのも大変である。

場所を変えて、採食中のメスを見にいった。ゴリラはアザミのような葉っぱの植物を引っこ抜いてムシャムシャと食べていた。

g2.jpg

g28.jpg

また、場所を変わった。もう1頭のシルバーバックがいる。斜面の上から子供たちが駆け下りてきてシルバーバックにじゃれついた。近くにはメスもいる。

どうやらこのシルバーバックが群れのボスらしい。シルバーバックは何か気に入らないことがあったのか、立ち上がってメスに腕を一振りした。

g30.jpg

そして四足になって、私たちの方へゆっくりと歩いてきた。さっきにシーンの再現である。私は再び目の前を通り過ぎるゴリラをじっと見ていた。

父親の近くで安心なのか、何頭かの子供たちが遊んでいた。1頭の子供はまっすぐ私の方にやってきたので、ぶつからないように道を譲った。こうして夢のような時間が過ぎていった。

g32.jpg

「後、6分です」

レンジャーがいった。ゴリラと過ごせる時間は1時間と決められている。

全員が満足しきって帰路についた。下りは速い。じきに公園の境界に着いた。ここで昼食である。

エチケットに従って、ロッジが作ってくれたボックスランチや、持ってきたビスケットをポーターに分けた。

「あなたたちは日本でよくハイキングにいっているのでしょ。日本のハイキングに比べてどうですか」

息子を連れた50代後半のご婦人が話しかけてきた。

「そうですね。最初は少しペースが速かったけれど、全体として楽でしたよ。日本人でハイキングしている人は皆そういうでしょう」

と答えた。正直な感想だった。

急ぎ足に下って車に乗った。ロッジについてしばらくすると雨になった。トレッキング中に雨に会わなかったのは幸運なことであった。

8月27日。2回目のトレッキングの日である。朝は晴れ。でも次第に雲が広がってきた。

今日訪れるゴリラの群れはウルガンバ。10頭の群れで、シルバーバックは1頭だそうだ。トレッキングのメンバーは私たち夫婦、一緒のアメリカ人カップル、そしてオーストラリアからきた4人組である。

オーストラリアの人たちはレンタカーでアフリカを回っている。運転している男は、このあたりの山で生きていけそうな相貌である。私たちとアメリカ人の男以外は全員30代。

「大丈夫かしら」

妻が心配そうだ。

「大丈夫ですよ。昨日はしっかり歩いていたじゃないですか」

アメリカ人がフォローしてくれた。

昨日とは違う駐車場へドライブ。道がひどい状態で、時間がかかり、歩き始めは8時50分。やはり1時間歩いて公園の入り口に着いた。

ここからの熱帯雨林歩きは昨日より厳しいものだった。道ははっきりしているが、傾斜がきついところが多いのである。

でも、日本の山よりは楽であった。少し難しいところがあるとポーターが手を貸してくれるからである。しばらく進むと、ダイアン・フォッシーの研究所跡へ行く道との分岐点に達した。

標高2700メートルを超えている。研究所跡はここから30分の位置にあるそうだ。この一帯をダイアン・フォッシーが歩き回ったのだ。

あたりは開けた草地で、その脇の大木にはつる草がまといついて、黄色い花を咲かせていた。

「この先はコンゴです」

レンジャーが近くに見える山の頂上を指した。

g40.jpg 

公園入り口から歩くこと1時間。

「着きました。ゴリラは見えないけれどトラッカーが見えます」

とレンジャーがいった。

トラッカーが切り開いてくれた道を進んだ。ここのジャングルは昨日よりうっそうとしていた。細かいとげのついた木があり、つかむと手袋を通して刺してきた。

最初に出会ったのは赤ん坊連れの母親。赤ん坊は生後6ヶ月だそうだ。赤ん坊は母親の肩越しに私たちを見ていた。やがて地上に下り、よちよちとこちらにやってきた。

g42.jpg

g44.jpg

少し進むと、巨大なシルバーバックが寝ていた。全身が広がっているので、あらためて大きいと感じる。

やがてシルバーバックは目を覚まし大あくびをした。鋭い犬歯が良く見える。そしてまた眠り込んだ。

g48.jpg

メスや子供たちがシルバーバックの周りに集まってきた。シルバーバックは体を起こした。赤ん坊は他のゴリラの体によじ登って、つる草をつかんで嬉しそうだ。

g51.jpg

つぎに、赤ん坊はお父さんにだっこ。神妙な顔をしている。ゴリラ一家の団欒が続く。私たちは、皆、たくさんの写真をとった。

さらにゴリラの家族を背景にした記念撮影である。平和な時が流れていった。

2日間で、ゴリラトレッキングで期待できるすべてを経験してしまった。私たちは感謝の念を抱いて山を下りていった。ダイアン・フォッシーの研究所跡への分岐点で昼食。しかしレンジャーがいった。

「急ぎましょう。雨になるといけない」

実際、下っていく途中で小雨になった。幸いなことに雨は途中でやんだ。

公園入り口のあたりまで引き返すと、なんと3匹のゴールデンモンキーがいた。背中が橙色の珍しいサルで、これだけを目的にしたトレッキングもあるのだ。

車に乗ってロッジに向かって走っていると、滝のような雨が降ってきた。トレッキング中にこの雨に会ったら悲惨である。またもや、とても幸運な1日であった。

雨であると、トレッキングが難しくなり、写真撮影も不自由だ。さらにゴリラが茂みに隠れてしまう。したがって、雨にあう確率が低い乾季は特にトレッキングに適している。

大乾季は6月から9月始めとされている。もう8月も末なので天候が不安定になっているのであろう。

8月28日。キガリへ帰る日。車が同じアメリカ人のカップルは昼のナイロビ行きに乗る。その前に虐殺記念館を見るので出発は朝7時という。

私たちはキガリ泊まりなので、もっとゆっくりしたかった。運転手に他の便はないかと聞いたが、都合がつかないとの返事だった。

仕方なく、また早起きして出発した。この運転手と車は信頼できるので、無理に取り替える必要はないという気もしていた。

ルワンダの道は安全とはいえない。キガリへの道路は舗装がしっかりしているし、そんなに混んでもいない。

それなのに帰り道では1台の車が路肩に突っ込んでいた。そして1台のトラックの車軸が折れてへたりこんでいた。 

ジェノサイド記念館は虐殺の様子と背景を詳しく説明していた。大虐殺はフツ族がツチ族に対して行った。記念館の説明によれば、フツ族中心の当時の政府による宣伝と準備が主な原因である。

しかしそれだけだろうか。垣間見た現地の人々の暮らしは決して楽なものではない。行き場のない憤怒の感情が背後にあり、それが宣伝などで正当化されて爆発したのではなかろうか。

むしろ、今、人々が平和に暮らしていることのほうが信じられないことかもしれない。

私たちが見終わって外へ出ると、入場停止になっていた。VIPが見学に来るので、一般の入場はしばらくお断りだそうだ。不承不承、早く来たことが幸いしたのである。

空港経由でキガリ・セレナ・ホテルに送ってもらった。KLMがこの日は飛んでいないので、仕方なくの1泊であったが、これは良かった。

ホテルに入るなり天国に来た気がした。ヴィルンガロッジは、いくら評判が良いといっても、アフリカの奥地の山の上にしてはというレベルである。

私たちはキガリ・セレナで美味しい食事をし、ゆったりバスにつかり、そしてしっかりしたベッドに寝て疲れを回復できた。

8月29日。夕方にホテルをタクシーで出発して空港に向かった。空港ではチェックインカウンターに行く前に荷物検査がある。ところが、手荷物も同時に検査するという。そして身体検査もある。時間はしっかりかかる。

チェックインカウンターでもやたらに時間がかかった。そして、また身体検査、手荷物検査、出国検査とフルコースを経て、薄暗い待合室に入ることができた。少し遅れて到着したが、KLMの機体を見たときは嬉しかった。

アフリカらしい混乱と非能率さはこの国でもはっきりしている。そこでマウンテンゴリラが何とか守られているのは信じられないほど素晴らしいことである。

空港の様子だけ見ていたら、現地の人に任せたら、マウンテンゴリラなどすぐいなくなる、といえそうだ。しかし、大虐殺の時期をゴリラたちは生き延びた。

現地の多くの善意の人々の努力が背後にあったのであろう。私は火山国立公園で出会ったレンジャー、トラッカー、ポーターたちの顔を思い出した。

帰ってきたアムステルダムから一気にボルドーに達し、ワインシャトー巡りをした。そしてサルラへ。

ここを拠点としてOphorus という会社の、英語の少人数ツアーに参加し、クロマニョンの洞窟を回った。ラスコー2は複製であるがとても迫力があった。フォンドゴーム(Font-de-Gaume)とペシュメルルは本物である。そしてキャップブランの馬の彫刻もよかった。

マウンテンゴリラの部分は4Travelのルワンダにも掲載しました。状況を示す写真を多くし、旅行のヒントを加えました。